@fune小説用tumblr

昔書いた小説とかのせておきます

Feb 13

孤独の離脱(6)

一話 自分からの離脱(6)

昨日は結局寝れなかった。沙希は「明日早いから」といって早々に床についていたけど、僕はどうしても眠れず、寝たのは一時間とかそんなもんだった。
「じゃあ、いってくるね」
沙希は僕を揺り起こしてそういった。まだ日は昇っていない、真っ暗な部屋の中で沙希の輪郭はぼんやりとしていた。
「待って」
「でも、もう行くことは決まってるから」
「そこら辺まで送っていきたい」
「そう……じゃあ、おねがい」
彼女はもう持ち主が帰ってくるかも解らない部屋の戸締まりをする。それなら、また戻ってくるのだろうか。それとも、ただの習慣か。
「もう戻ってこないかもしれないから、鍵はあげるよ。部屋も好きにしていいから」
「でも……」
「戻ってきたとき返してくれればいいよ。ただ持っててくれるだけでいいから」
「……じゃあ預かるだけね」

昨日からの雪はまだ降り続けていた。雪の降っている夜は明るい。近くの国道からの光を反射しているのか、空はうすらぼんやりと赤く発光しているように見える。
僕たちは薄暗い街を黙々と歩く。まだ誰ともすれ違っていない。こんな時間なのだから当然だけど。
「あのね……」
ずっと黙っていた彼女が口を開く。もしかしたらやっぱり行くのをやめる、なんていってくれるんじゃないかと期待している。そんなことはないって自分でも充分わかっているのに。
「魔法、練習したんだ……」
「……うん」
本当に、魔法使いになってしまったんだ。沙希の魔法は何度も見ているからそんなことは解っているはずなのに、それでも魔法と聞くと変な気になってしまう。それは魔法が一般的じゃないから、というのもあるけど、魔法のせいでこんなことになってしまったんだって憎むような気持ちもある。
「前に、いつか魔法を見せてっていったよね。だから、楽しみにしてて」
僕はそれを本当に楽しみにできるのだろうか。せっかく練習したといっているのだから見てみたいけど、それでも魔法を許容できるかは解らない。
「空を飛ぶ魔法は?」
「もっとすごいのだよ。一生目に焼き付けとくといいよ」
沙希は僕が魔法をあんまり好いていないということを知らないし、僕も沙希が今どんなことを考えているのか知らない。別に知る必要なんてないものかもしれないけど、知りたいと思うし、理解して欲しいと思ってしまう。
「わかった」
だから僕はそんな返事をした。それは理解されることの拒否じゃなくて、でもただの諦めでもない。それぐらいが丁度いいと思うからだ。
それきり会話はとぎれてしまって僕たちはまた黙々と歩く。
「コンビニよっていこうか」
思い出したように沙希は呟く。本当にただのつぶやきで、そこに同意を求めるような色はなかった。

そこで彼女は温かい飲み物だけ買って、僕もコーヒーだけを買った。
それをすすりながらまた歩く。
何も喋らないで、僕はただ昔のことを考えていた。
それは沙希とすごした時間のことと出来事のことだけじゃなくて、僕がひとりでいたときのことや、子供の頃のこともだ。
それらはわざわざ思い出すほどのことじゃないように思えた。なんとなく、全部ずっと昔のこととというような感じで、今の自分からは遠く離れていて、意味をなさないような感じだ。
もしかして僕は、沙希と離れてしまうことで孤独になろうとしているのかもしれない。
唯一、ひとりになることを決心させなかった理由だからだ。
沙希がいないのなら、僕はひとりでもかまわない。
それは自分でも短絡的だと思う。これから生きていく中で、僕にとって沙希の変わりになる人が現れないとはいえない。だから、別に、これは特別なことじゃない。まだ次があることだ。客観的に考えるとそうなるけど、やっぱり今ここにいる僕にとって沙希は特別だ。
そして、今の時間は特別な時間で、もう少ししたら沙希は僕の目の前からいなくなってしまう。
また戻ってくるかもしれないと少しの希望は残っているけどそれもどうだか判らない。
その希望にすがっていれば、いつまでも生きていられるかもしれない。誰かを待つこともしないで、目の前を見ないでどこか遠いところを見ているかもしれない。そうしていたら、僕の前を横切っていくたくさんの誰かや何かを見過ごしていくだろう
だけど、そうして待ちながら生きていたら僕は孤独になれない。
あの星のある場所に行けない。
空は厚い雲に覆われていて星は見えないけど、そのうえで星はまたたいているはずだ。
真白い光を放ち続けているはずだ。
それなのに、僕のいるところは澱みきっている。
そんなことは解っている。僕はどうすることもできない。世界を変えることなんて無理だ。それこそ魔法でも使わない限り。だけど、その澱んだ場所をあとにして、どこか別のところに行くことはできる。だから、僕はそうする。
いつの間にか昔のことは考えていなかった。考えていたのはこれからのことだった。
だけど、これからなんてあるのか?
それはそのときが来ないと決まらない。
いくら考えたって、いろいろと未来の時間のことを考えたって、そのときが来てしまえばそこにある事実に全部覆されてしまう。
「じゃあ、ここまでね」
「えっ?」
彼女はそこで歩くのをやめて、こちらを向いていた。
「これからはひとりで行くよ」
「……そう」
ここで終わりなのか。
僕はここで終わるのか?
そのときが来るのはもう少し後になる。だから、今いろいろ考えたって意味ない。
目の前の沙希をみる。
「ごめんね……」
「何が?」
「わたしが魔法使いにならなかったら、ずっと一緒にいられたのにね」
「自分でなったの?」
「わからない。いつの間にかなってた」
「ならいいよ……」
喋っている間にも雪は降り続けていて、彼女の頭や肩の上に積もっていく。
もう一緒にいられる時間は残り少ない。なら、いうこととか、いわなくちゃいけないこととかあるんじゃないかと思って探してみるけど、何も見つからない。「頑張って」とか、そういうその場によくある言葉は思いつくけど、そのどれもは僕の心を表すのに適切じゃない。
何もいわなくてもいいのかもしれない。
くだらない言葉とかはいらないんだ。言葉なんていくつ重ねても伝わらないから、本当に大切なものなら口にしないほうがいい。
つないだ手ももうすぐ離れてしまう。それは単純に距離によるものでもあるし、立場の違いでもある。
「許してくれるの?」
「最初から怒ったりなんてしてない」
「よかった」
そういうものなんだ。運命とか必然とかじゃなくて、ただ、そういうもの。沙希が魔法使いになって、魔法使いになったなら、こうやって違うところにいってしまう。それはごくごく普通のことで、生まれた人間がいつか死んでしまうみたいに、当然の流れなんだ。だからといって、それが嫌じゃないなんていえないけど。もちろんそんなことを沙希にいったりはしない。
「じゃあ、もう行くから」
沙希は右手を挙げて何事かを考えるような表情をしている。魔法を使うのだろう。
「練習したんだよ。ちゃんと見ててね」
手袋の手から火花と煙があふれる。火花は空へと駆け、煙があたりを包む。
頭の上の遠いところで何かが爆発したようで、分厚い雲に穴が開く。
「ほら、青空が見えるでしょ」
そういう沙希の姿を探すけど、煙に阻まれて見えない。
「朝焼けの時間だよ」
その通りで、日が昇り始めたばかりの空は白と青の混ざったまばゆい色をしている。
それをまぶしいと思い、目をすがめようとするけどそれはしなかった。
「もう、行かなくちゃいけないから」
「……待って」
最後に一度だけでも姿を見たい。
「ううん」
煙が濃くなり、それに比例するように空の青い部分が増えていく。雲はなくなった。
「行かなくちゃいけないんだ。今ならいけそうな気がするから」
「…………」
「とっても気分がいいんだ。今ならなんでもできそうな気がする」
なら、僕は見送らなくちゃいけない。
沙希にとって、今行くのが一番いいのだろう。それを僕のエゴで汚しちゃいけない。
「だから、さよなら」
「……行ってらっしゃい」
この言葉はいえた。「頑張って」とかそんなことはいえないけど、送るための言葉はいえた。それは心からの言葉で、きっと本当に思っていることに近いものだ。やっぱり、思っていることを正確に表してはくれないけど、割と近いところだ。
「いってきます」
何かが弾けるような大きな音がして、声は聞こえなくなった。
「…………」
僕は何も考えないまま立ち尽くしていた。
少しすると煙が晴れた。そこに沙希はいなかった。
「ふぅ……」
すごく疲れた気がする。空を仰ぐと、山の方に朝日が見えた。稜線から半分だけ顔を出して空にグラデーションを作っている。橙から黄色へ、白、青、藍へと。僕の向いている方からずっと向こうの方まで続く空へと。
「帰ろう」
沙希はもう行ってしまった。僕がこれからどうするかは決まっていない。
とりあえずは、家に帰って眠ろう。
そう決めて歩き出す。
僕の前から消えてしまった彼女も歩いているのだろうか。それとも、空を飛んでいるのかもしれない。そんなことはどうでもいいけど。沙希は沙希なりにもう生きているのだろう。僕のとは違う道のどこかで。
さようなら。僕は歩き出す。


Feb 8

孤独の離脱(5)

一話 自分からの離脱(5)


いつの間にか、もう朝だ。
沙希が魔法使いを自称するようになってからどのくらいの時間が過ぎたのかなんて忘れてしまったし、最後にそういっていたのは確か正月だけど、今がいつだか解らないからそれもずっと昔に感じられる。
それでも窓から注いでくる朝の光は最後のとき同じで、透明で青い色をしていた。これも無駄なものがなくて、きれいで素敵なものだ。カーテンの隙間から柱のよう差し込む光の中に指を浸して、そんなことを考えていた。真冬の光のくせに指先を温める熱を持っている。そこには誰かが名前をつけた赤外線って名前の光がが含まれていて、光が柱のように見えるのにも、やっぱり知らない誰かがつけたチンダル効果という名前がついている。だけど、そんなきれいなものに名前をつけたひとはきっとこの光と違って汚いものだったはずだ。名前なんていらない。
そう思ったら光を見るのも辛くなってしまって目をそらしてしまう。
そらした視線の先には沙希がいて、布団の中で幸福そうに寝ている。
「…………」
疲れているだろうし、そっとしておいたほうがいい。そうは思うけど、もどかしくて肩に触れた。むき出しの肩は思いの外冷えていて、おどろいた。それでも手は引っ込めずに、包むようにふれていた。これで少しでも暖まるといい。
だけど、そんなんじゃ全然暖まらないことも解っているから、布団を肩まで上げてやる。布団がかすれる音がうるさかったのか、小さく声をもらして寝返りをうった。起こしちゃまずいよなと思いつつも、こんどは髪にふれて、梳いてみる。
彼女は寝る直前に「今日か明日には出て行くよ」そういった。
沙希の体の感触を絶対に忘れないように何度もふれて、キスをして、強く抱いて、それでも覚えようとした感触は頭の中からこぼれ落ちてしまって、また何度も何度も抱いたりした。
そうしているうちに朝になって、彼女は疲れて寝てしまった。
さらさらと流れる髪は指に気持ちがいい。やっぱりすぐに忘れてしまうというのは解っているけど、それでも精一杯忘れないように、頭の中に焼き付ける。
髪を梳くのをやめて、指に残る感触を何度も何度も反芻する。だけど、やっぱりすぐに忘れてしまう。これはもう仕方ないことなんだと割り切らないといけない。沙希も戻ってくるかもしれないといっていた。これが最後とは限らないから、いい加減諦めないといけない。
最後にキスだけして、もういちど温かい布団に入る。

「ねぇ、どこに行こうか?」
「神社に行こう」
そういえば初詣に行ったときおみくじをしなかった。だから、最後にそういうことをするのもいいかもしれないと思った。
「地味だね」
笑われる。けどいいじゃないか。
「いいじゃん。べつに」
「そだね。それで丁度いいのかな」
駅前の道を歩く。平日の午後で、元から使う人の少ない駅とその駅前は人がまばらだ。空は初詣の時と同じで曇っている。
「丁度いい?」
「そう。わたしたちの関係はそれぐらいが丁度いいんだよ」
「そうかも」
別に感傷にひたりたいということじゃないけど、沙希は本当に短いうちに変わってしまったと思う。それは魔法使いになって……魔法使いとしての視点を獲得したからかもしれないし、元から僕は沙希のことなんて解っていなかったのかもしれない。
空はもう一度見上げても曇ったままだ。それは当たり前のことで、自分でも解っている。だけど、晴れてくれたっていいんじゃないか、もしかしたら晴れてくれないか。彼女の前途を祝福するような青い空があってもいいんじゃないかと思う。
「ほんとに、そんなものだったんだよ……」
「沙希?」
「わたしたちの関係なんて……ごめんね。変なこといって」
「別にいいけど」
沙希はもっと脳天気な感じじゃなかったか。そんな、いろいろ考えたりなんてし勝ったんじゃないか? 魔法使いになって変わってしまったのだろうか。
「……変わったね」
本当に変わったのだろう。僕が沙希のことを全然見ていなかったのではなく。全部見れていたとは思わないし、沙希だって全部見てほしいとは思わないだろう。
「わたしが?」
「そう。もっと脳天気な感じだったよ」
最初に魔法を使ってから、まだ一ヶ月と過ぎていない。きっと、一年後とかにはもっと変わっているのだろうし、そうしたら僕たちは一緒にいられないだろう。だから、今が潮時なのかもしれない。
「そうだね……もっと短絡的だった」
ここで袂を分かつのがいいのかもしれない。
「今はそうじゃない?」
「少しね」
路面は雪で濡れているのに踵はこつこつと音を立てる。今まではどこへ行くとか決めないで、ただなんとなしに歩いていただけだったけど、神社に行くという目的ができた。
それでどうするか、と。そんなものはない。
ただ、沙希がいってしまうまで時間を潰しているだけだ。
こんな考え方は悲しいけど、それでも実際そうなのだ。別に、思い出をつくろうなんて殊勝な考えはない。だから、やっぱり時間潰しでしかないのだ。
……それでも一緒にいるのは未練か?
意地を張っているのかもしれない。
「魔法使いなんて……」
意地でも何でもいいけど。それの正体がなんであったとしても、僕はいまこうやって幸せだから。……沙希の代わりに脳天気になっているのかもしれない。今は楽しいから大丈夫。そんな短絡的な考え。今日か明日、沙希がいなくなって、それから僕はどうしていくんだろう。
どうもしないけど。元から目の前に何かがあるる訳じゃない。ただ、渺茫と続いている空間で漠とした不安を抱えながら歩いている。ずっととまっていても仕方がないから、とりあえず歩いているだけだ。
「……魔法使いになんてなりたくなかった」
もし、魔法使いにならなかったら、僕たちの関係は変わらずに、ずっとあのままだったのだろうか。
それが停滞かは安定かしらないけど、僕はそうしていたいと思うはずだ。だけど、魔法使い以外の理由でもそんな関係は崩れてしまうだろう。僕と彼女は歳と学年がひとつ違って、彼女が卒業してしまえばそのまま自然消滅してしまうかもしれない。そんなことはない! と大声で叫ぶこともできるけど、実際はどうか解らない。
そんな、もろい関係だった。
認めたくはないけど。
「そうしたら、ずっと一緒にいられたかもしれないのにね。ほんと……」
やっぱり初詣の時と同じように山の向こうから黒い雲が迫ってきている。今日も雪だ。
「早く行こう。雪が降るから」
「……うん……」
手を引いて歩き出す。

「なにもないね」
沙希のいうとおりで、境内にはなにもない。
「たこ焼き屋出てないね」
「なにもない時期だから仕方ないよ」
雪ばっかりで人の姿はもちろん、出店もない。僕はそれを寂しいと思わないけど、沙希はどうだろうか。魔法使いになる前ならこう思ったというのすら思いつかない。元からそんなことは考えたりしなかった。今が特別なだけだ。
「社務所開いてるかな……」
「お守りでも買ってくれるの?」
「あぁ……買おうか」
忘れてたけど、それぐらいはしてもいい。だけど、なにのお守りを買えばいいのだろう。交通安全?
「ありがと。一生大事にするよ」
「大袈裟だって」
石畳を歩く。ぐずぐずになった灰色の雪はなくて、真白い雪が参道をのぞいて積もっている。そこだけは雪を払っているのだろう。この神社にどれだけの人が来るかは解らないけど。ちゃんとしているらしい。
「なんかすごいね」
「なにが」
「人が全然いない。まっしろだし、本当に神様がいそう」
「神様はいないの?」
「さぁ……わかんない」
「魔法があるんだから神様もいるんじゃない」
「そうかもね」
彼女の魔法はどんなものなんだろう。いつもこともなげに使っているけど、その裏の論理を僕は知らない。
「でも、神様はお願いをかなえてくれなかったね。ずっといられない」
笑いながらいわれる。
「じゃあいないのかもしれない」
「うん。いないよ、きっと。それとも、お正月で全部のお願いをかなえられなかったのかも、みんなたくさん身勝手なことを願ったりするから」
「もう嫌になったのかもしれない。勝手なことばっかりいわれてたらお願いかなえるのもやめちゃうだろうし」
「あはは。かもね」
そんなくだらない話をしていたらいつの間にか拝殿の前に来ていて、僕は少し緊張する。なんてお願いをすればいいのだろう。それとも、お願いなんてしなくていいのか。どちらにせよ、それはかなわないのだろうけど。
「また、お金貸して」
「うん」
「十円ね」
「額に意味はないんじゃないの?」
「そんな迷信にもすがりたいほどかなって欲しい願いがあるのよ」
「そっか」
財布を出して中身を見る。幸い十円玉はたくさんあった。
「ほら、五十円」
「なんで?」
「十円よりも強そう。それに、五円の十倍だよ」
「じゃあ、五十円にする。きっとかなわないんだろうけどね」
かなわないといっているくせに、妙に神妙な顔をしている。もしかしたらっていうのを願っているんだろう。神様なんていないから、そんな「もしか」を願うことに意味はない。だけど、もしいるのなら、それを願いたいのだろう。やっぱり身勝手だけど。
五十円玉は放物線を描いて賽銭箱へ吸い込まれる。鈴縄を揺らしてうるさい音がたつ。
周囲にがらがらという音がわたって、僕は微妙な気持ちになる。それがどんなものかは自分でもわからない。
沙希はやっぱり間違った手順でお参りをしている。柏手を打ち、目をかたくつむって、あわせた手はしっかりと閉じて、必死な表情でいる。
いるかいないかも解らない神様に向かって必死で祈る姿をみて僕はまた微妙な気持ちになる。さっきのと今のこの気持ちは別物で、そのどちらも自分ではよくわからない。
殺風景な境内に風が吹いて僕は寒い。
祈り……
沙希は顔を上げずに祈り続けている。風が枝だけの木と、葉っぱの残っている榊と椿の中でうなっている。僕はなにもできずにただ立っている。耳の溝で風が渦を巻いて音を立てている。黒い雲の塊はさっき見たよりも近づいてきていて、この風だと仕方がないなと思いながらも少し残念だった。
「えへへ……」
いつの間にか沙希が僕の方を見て笑っていた。
「なんてお願いしたの?」
「教えない」
「そっか」
なんていいながらまた笑っている。風もまたどこかでうなっている。彼女は空を仰いで何事かを考えているような顔をしている。
「空、曇ってるね」
「そうだね」
やっぱり雪は降るだろう。
「明日の朝行くから」
「そうか……」
じゃあきっとそのときも雪は降っているだろう。天気が変わったからといって何かが変わる訳じゃないけど、それでも晴れていたほうがいい。
「じゃあ、お守り選ぼうか」
「そうだね」

結局何のお守りを選んだかというと恋愛成就だった。
「まだ成就してないからね」
ということらしい。やっぱりそんな関係だったのかもしれない。それとも、彼女の思う形と僕の考えているものが違っていたのかもしれない。違ってきたのかもしれない。


Feb 7

孤独の離脱(5)

一話 自分からの離脱(5)

沙希はどんどん魔法使いらしくなっていく。今もたくさんのアロマキャンドルに火を点けたりしている。
「何やってるの?」
「魔法の練習」
短く返されて、またろうそくの方をじっと見ている。じぃっと見つめていたろうそくに火が点いて、それから堰をきるようにすべてのろうそくに火が点いた。ほんとにもう魔法使いなんだな。
部屋にむせかえるような甘ったるいにおいが満ちる。
「どう?」
「どうといわれても……すごいんじゃん?」
目の前で起きていることは非現実的でどうコメントしていいのか悩む。僕は魔法を使えないからそれがすごいのか解らなくておざなりな返事になってしまう。
「…………」
それを聞いているのか、いないのか、またろうそくの方をじっとみて、こんどは順々に火を消していった。
「出かけない?」
「コンビニ?」
ちょうど腹も空いていたし、それならいいかもしれない。
「ううん」
「じゃあどこ?」
こんな時間に出かけるところなんてないはずだ。ここは田舎だから遊びに行くような場所もない。
「散歩」
「今から?」
外はもう真っ暗だ。そろそろ日が変わる頃だし、寒いし、あんまり行きたくない。
「夜景がきれいだよ」
「この街じゃ夜景なんて見れないよ」
「見れるんだよ。見せてあげるから」
なにを言っているのか……魔法の何かだろうか。
「行こうよ」
「別にいいけど……」
どこに行くんだか……沙希の行動は最近、突拍子のない方向に向くことが多くてよくわからない。魔法使いになって彼女の中で何か変わったのかもしれない。僕はその変わりかたについて行けなくて、だから彼女の行動を突拍子もない、って思ってしまうんだ。
そんなことを考えながら出かける準備をする。
「これ、貸してあげる」
「なに?」
マフラーだった。
「外、寒いから」
「うん」
僕もマフラーは持っている。二本巻けばいいのだろうか。
「どこに行くの?」
そんなに寒いところに行くのだろうか。想像を巡らせるけど、特にそんな場所は思いつかない。外に出ればどこだって一様に寒いんだし、ものすごく、って場所はない気がする。
「秘密」
らしい。やっぱり沙希の考えていることは解らなくて少しさみしい。それは彼女が魔法を使うようになる前からだけど、解らなくて悲しいのを魔法と重ねて理由を作っているだけかもしれない。べつに、沙希を理解することが僕の目的じゃなけど、近くにいてもなにも解らないのはやっぱり嫌だ。
「そう」
そんなことを考えている間に準備は終わって沙希に手を引かれていた。
「どこに行くの?」
「ベランダ」
「飛び降りて夢の国に散歩に行く?」
「飛び降りて空に散歩に行く」
なにをするんだろう。
窓が開けられて部屋の中に冬の風がなだれてくる。けど、ずっと暖かい部屋にいたから体はそんなすぐには冷えない。ただ、少し寒いな、と思う程度だ。本当に飛び降りてしまうのだろうか。死にたいか死にたくないか、わざわざ死にたいとは思わない。だけど、彼女に一緒に死のうと切実そうにいわれたらそうしてしまうかもしれない。沙希はそんなことをいわないと思うけど。死ぬならひとりでひっそりと死ぬだろう。僕を呼ぶかもしれないけど、それでもやっぱり、静かにひとりで死ぬだろう。
「ねっ、背中に乗って」
「いいの?」
つぶれてしまいそうな気がする。僕は別に重くないけど、それでも沙希はつぶれてしまいそうな気がしてならない。特別細いとか非力とかそういう訳じゃないけど、そんな気がする。
「はやく」
「はいはい」
いいのかな……でも、そういっているんだからきっと大丈夫なのだろう。
首に手を回して、背中に体を乗せる。だけど、これは乗るというよりももたれるといったような感じだ。
「手、放さないでね。落ちるから」
「うん」
ほんとに飛ぶのだろうか。
「行くよ」
そういって彼女はベランダの地面を軽く蹴って、それきりつま先は浮いたままでいた。僕のも彼女のも。これも魔法の力か。
「練習したんだ。ふたりで飛ぶのは初めてだけど、リュックに重りを入れて練習したからきっと大丈夫」
「うん」
さっきもろうそくに火を点けたり消したりしていて、魔法の練習をしていた。初めて魔法を使ったときからずっと練習をしているのだろうか。沙希は魔法を使ってどうするのだろう。
「墜落しても許してね」
「もちろん」
そんなことは気にしない。積極的に死にたいとは思わないけど、別に今ならそういうのもいいかもしれない。沙希と一緒に死ねるのだし、他のシチュエーションよりは大分いいだろう。少なくとも車に轢かれるとか、病気で苦しんだ末に、とかよりは大分いい。
体が一瞬沈み込むようになって、つま先が少しだけ地面に触れた。そのあと、ふわりと体が浮き上がるように持ち上がって、ベランダの手すりも乗り越えて、下にはなにもなくなっていた。
足下にはなにもないんだ。今までしっかりと足の裏をつけていた地面が今はない。ときどき跳ねてみたりして、そのときだけは体が浮き上がる。だけど、こんなに長く離れていたことはない。飛行機に乗ったって、足は床の上だ。今はなにもない。
「どう?」
「足が地面についてない」
「変な感想だね」
沙希の部屋はマンションの割と高い階にある。だから、地面はもうずっと下のほうにあって、僕も沙希も落ちたらきっと死んでしまう。
「高いね。落ちたらきっと死ぬ」
「そりゃあね。でもきっとだいじょぶだよ。落ちたりなんてしない」
「落ちたくない?」
「わかんない。でも落ちるような真似はしない」
「そう」
落ちたりはしないらしい。自殺願望がある訳じゃないから残念だとは思わない。それでも少しは魅力的に思ってしまう。今はすごくいい気分で、死ぬなら今がいいと思えるから。これから先、たくさんの困難やあ辛いことがある。なら、今この気分のまま終わらせてくれたらいい。その程度の魅力。
「寒い?」
「大丈夫」
まだ外に出たばかりで、そんなに寒くない。高いところにいると風が強くて、コートの隙間からどこからか寒いものがにじんでくるけど、まだ大丈夫だ。
「もっと高いところへ行くよ」
「うん」
「つかまっててね。落ちたら助けられるか解らない」
自分勝手だけど、ひとりで落ちたいとは思わない。死ぬならふたりの方が絶対いい。ひとりは嫌だ。落ちる間に気分も冷めてしまいそうだし。
だから、彼女の首にかけた手に力を込める。持っているマフラーのうちの一本を貸してもらって、彼女はいつも使っている方を首に巻いている。
「沙希は寒くないの?」
「寒いぐらいでいいんだよ」
「そっか」
それがどんな理屈によるものかは解らないけど、それでも納得した。寒いほうがいい。
もう話は終わったらしくて、体は更に空へ向かっていく。今日はよく晴れていて、空は昼間のものを何倍も濃くしたような深い青をしていた。
その深い青の中に向かっていくか落ちていくかしていく中、数えられない程度の星が目に入る。
風が強くて、マフラーはそのまま首からもがれて飛んでいってしまいそうだった。沙希に借りたものだからなくしちゃいけないと思って、だけど手は彼女の首にしっかり巻かれていて押さえることは。仕方なくあごを引いて精一杯の抵抗をしてみる。そうしている最中にも星は僕の目の中に飛び込んでくる。
目も開けられないような風の中で星を見ていた。いつのまにか、首にかけた手の指先に力を込めていた。ふわふわの毛糸のマフラーのなかに指を埋めて、しかしそんなことは意識もしないで星だけを見ていた。
「きれい……」
「なにが?」
「星が」
「そう」
別にいつもと変わらないんじゃないの? そんなことをいわれるかと思ったけど、彼女はそのまま興味をなくしたみたいに会話を打ち切り、また加速する。
僕は彼女の背中にいるけど、それでも風は吹き付けてきて容赦なく体温を奪っていく。このまま凍死ししてしまいそうだ。その中でマフラー越しに沙希にふれている指だけが温かい。きっと、直接肌に触れられたらもっと暖かいはずだ。だけど、そんなことをするのも面倒で、ただ星を見ていたかった。星だけを見ていたら、体は僕から剥がれて、残るのは、残るのは僕の意識だけになってしまって、そうしたらどうなるのだろう。
無駄なものは全部なくしてしまって、残るものは意識だけ。それはとてもきれいに感じられるし、素敵で、魅力的だけど、やっぱり少し怖くてまた指先に力を込めた。
「苦しいよ」
「ん……ごめん」
そんな無駄のない状態になったら僕は孤独なのだろうか? そこに沙希はいるのか? 完璧な状態になって、そしたら僕はきっとひとりになる。それは嫌だな。沙希と一緒にいたい。そうは思うけど、やっぱり意識だけの状態というのはきれいなままで、素敵だ。
「ほら、ついたよ」
「どこに?」
「さあね。どこか高いところ」
彼女のいうとおり、ここは高いところで、さっきまで足をつけていた地面も、見下ろした地面も遠く離れて見えなくなっていた。
僕は地面から離れて、一緒にこそにあったものからも離れられた、少しだけ無駄なものをなくして、僕だけの状態に近づいた。
「寒いよ」
「コートも貸してあげればよかったね」
「さすがにコートをふたつは無理だよ」
「あはは。そうだね」
そんな楽しい会話をする。やっぱり、ひとりになるのは嫌だ。それでも素敵なものに未練はあるけど。
「ねぇ、きれい?」
「下のほう?」
「そう」
僕たちの住んでいるところは長細い光の帯のようになっている。国道と電車が通っている小さな街で、短い電車も駅舎もはこの時間は明かりを落としていて見えない。だけど、国道だけは黄色と赤の光で小さな、糸みたいに細い帯を作っている。
「わからない。人が沢山いそう」
「そうだね。たくさんいるね」
「人が沢山いるのは、今はあんまり好きじゃない」
今は。だけど、これから先ずっと嫌いになってしまうかもしれない。こういう、星とかのきれいなものは人の中にないような気がするからだ。孤独の中にある。僕は踏ん切りがつかなくてその場所には行けそうにないけど、でもいつかはいってしまいそうな気がするから、もう、あの中には行きたくない。もう、僕はそこに住んでいないのだし。できることなら、こうやって、ずっと飛んでいたい。
「そうだっけ? 初耳だよ。わたしは春巳のこと知らなかったんだなぁ……」
「ううん。今知ったばかりだよ」
「そうなの」
だけど、僕はひとりじゃ飛べない。こうやって沙希の背中にすがりついていないと無理なんだ。ひとりではひとりになれるところにいけない。それはもどかしくもあるけど、嬉しくもある。地面のあるところにいたらひとりにはなれない。だからそれは嫌だ。沙希の背中にすがりついて飛んでもらえば、僕と沙希しかいないところへいける。今はまだふたりがいいから、この状態で心地いい。
「寒いね」
「帰りたい?」
「まだいたい。寒くてもいい」
ずっと寒いところにいてもいい。このまま意識が消えてしまうまでいたいと思う。
「冷凍保存されたい」
「なにそれ?」
笑われる。
それでもいいと思う。
「ずっとこうやって、寒いところにいて、いつの間にか意識とかなくなったりしたら最高だと思う」
「死にたいの?」
「解らない」
死にたいのかな? だけど、それは死ぬという感じではない。全部なくなってしまうような感じ。
「危ないね」
「なにが?」
「危ないというよりも、あやうい。春巳、いつか死んじゃいそう」
「死なない人間なんていないよ」
「そんなことを訊いてる訳じゃないよ。わかってるでしょ」
沙希がそんな月並みのこたえを訊きたい訳じゃないっていうことは解っている。だけど、自分の中でもよくわからなかったから、そう応えるしかなかった。
沙希にとってどんなものが答えなのだろうか。
僕にとってそれはやっぱり死ぬこととは違う。もっと希望にあふれたものだ。周りのものたちに自分を奪われて、残ったほんの少しのものをかき集めて抱いて、背中を丸めてもう許してくださいといって、みすぼらしく終わらされてしまう死とは全然違う。もっと名誉あるものだ。
大切なもの以外全部をすてて、飛び上がる。周りにはなにもないところへ。
奪うものはいない。だから、それらから逃げるために身につけていた、重いものもいらない。自分の大事にしてるものだけをもっていける。そうしてひとりですごすのだ。
そこはきっと、ここみたいに寒いところだろう。
「死なないよ」
「なんで? 君が死なない理由なんてないよ」
「それでも死なないよ。絶対」
いつか、きれいで素敵なものになるまでは。でもそうなれるまで、僕は地面にいないといけない。その間は奪われてもいいものをたくさん身につけて、自分も誰かからそのどうでもいいものを奪わないといけない。奪われてばかりじゃなにもなくなってしまうからだ。自分の大切にしてるものも全部、自分自身も。
それまでは絶対に死ねない。
「そう。じゃあ、わたしは安心していいの?」
「いいよ。沙希がいなくなるまで僕は絶対死なない」
「いなくなったら死んじゃうの?」
「たぶんね」
きれいなものになっても、それは傍目から見れば死んでいるようにしか見えないだろう。体もすててしまうからだ。
「でも、僕は死んでないよ」
つないだ手から、僕は沙希の大切なものを感じるときがある。互いに手のひらに触れて、相手を直接感じることができる。そのときに、感じることができるのだ。
「温かいしね」
「なにが?」
「ゆび」
僕の指先はいつの間にかマフラーじゃなくて、沙希の首筋に絡められていた。
温かい。むしろ熱いぐらいだ。夜の空とは違って真白い、地面に積もった雪みたいな肌。だけど冷たい雪とは違って内側から発熱していた。
血管にふれているのか指先に弱い拍動を感じて、彼女の体が生きていることを知れた。
「沙希も、温かい」
「生きてるからね」
僕の体も温かいはずだ、だけど、このまま冷やされて、体温なんてなくしてしまえばいいと思う。
「生きていたほうがいいのかな?」
そうすれば無駄なものがひとつすてられる。
沙希とつなぐ手は最後まで残しているつもりだけど、それ以外はいらない。体も。つなぐ手は別に肉を伴っていなくてもいい。そんなものよりもっと良いものがあるはずだ。
「死んだら悲しむよ」
「じゃあ死ねないな」
沙希が悲しむなら、だめだ。死ねない。
所詮、沙希に生きる理由をもらって体にすがっているだけのかもかもしれない。すててしまう勇気がないから。
「寒いね」
指先に脈を打つ心臓を感じている。沙希は生きているし温かい。やっぱり未練がある。
星がきれいだ。今はまだいけないけど、近いうちに。全部振り切ってそこへ行こう。
「そろそろ戻る?」
「あと少しだけいたい」
「じゃあ、少しね。ここままじゃ死んじゃうから」
「うん」

「戻ってきちゃったね」
あのあと寒さで意識が飛びそうになる寸前まで空にいた。今は戻ってきてベランダにいる。ここも寒いけど、空にくらべたらずっと暖かい。
「わたしだってずっと飛べる訳じゃないから、いつかは戻らないと」
「そっか」
死ぬまで飛んでいて欲しいっていう身勝手な気持ちもあるけど。
「寒いし、はやく暖まろう」
この体の冷えをなくしてしまったら、また元の場所に戻ってしまうような気がする。今はまだ、かろうじて、意識だけは空にいる。
「そうだね」
それでも沙希と一緒にいられるなら別にいい。沙希の部屋には僕たちふたりしかいなくて、他に入ってくるものもいないから。夾雑な地べたよりはずっといいし安心できる。
なんだか、空を飛んでいる間にずいぶん矛盾した思いをもった気がする。自分でもよくわからない。
「あのね」なにか、決心したような声。
彼女はサッシに手をかけたままいう。
「わたしさ、魔法使いだから、いつまでもこうしてはいられないんだ」
「え?」
「魔法使いだから、いつか別れないといけない。ここじゃないところに行かないといけないんだ」
「…………」
……そうなのか。
「いつか別れなくちゃいけないけど、もう少しならいられるとおもうから、死なないでね」
「それは、いつまで?」
死なないでいられるだろうか。
「いつまでいなくなるかってこと?」
「それもあるけど、いつまで死ななければいい?」
「ずっと。ずっと戻ってこないかもしれないし、すぐ戻ってくるかもしれない。だけど、解らないから死なないで。あと、わたしがいなくなったあとも、できれば……」
「…………」
「ねぇ……」
「うん。がんばる」
「絶対ね」冗談みたいにいう。沙希も、絶対なんてものはないことを知っている。それでも、絶対といった。
沙希がいなくなってしまう。
僕はどうやって生きていけばいいんだろう。沙希のいないところでどうして生きていけるか? そんなのは無理だ。
「身勝手だよね」
沙希の手をつかむ。指先は冷え切っているけど、それでも温かい。
抽象とか観念とか、そんなものでつながっているよりも強い実感がある。
「うん。身勝手だ。魔法使いだからって、どこかへ行くなんて」
「ごめんね。だけどそうしなくちゃいけないんだ」
ぎゅう、と強く手を握る。小さい手はそれだけつぶれてしまいそうだけど、強く熱を感じることができる。彼女の中に流れる血の温度と、細胞の発熱、それから大事にしているもの。それらを感じることができる。
だけど、それも手のひら越しにしか感じることができずに、僕を不安にさせる。こんな小さいものじゃ怖い。手のひらのちっぽけ感覚だけじゃ、彼女が今すぐにでもどこかへ行ってしまうんじゃないかと不安で仕方がない。
だから、強く抱きしめる。
「ごめんね。ごめんね……」
本当に肩とか肋骨とか、折れてしまうんじゃないかと思えるほど強く抱く。そうでもしないと感じられないからだ。だけどそれも、ごわごわして分厚いコートに阻まれてうまく感じられない。そして、それを脱がしても体が邪魔をして沙希の本質には近づけない。
「沙希のせいじゃ、ないよ」
……だからといって許せる訳じゃないけど。
彼女はなんで魔法使いになってしまったんだ。


Feb 6

孤独の離脱(4)

一話 自分からの離脱(4)

いっちゃった。
さて、どうしようかな。春巳がコーヒーを入れてくるまでわたしはなにをしていようか。
ごおぉぉぉ、とうなっているストーブ。まだ点けたばっかりで、くさい空気ばかりをはき出している。
「窓でも開けよう」
二重の窓を開けて、換気をする。外の凍った空気が部屋の中にゆっくりと入り込んでくる。窓から顔を出して、わたしは頬にさすような冷たさを感じる。あぁ、いまは冬なんだなって実感をもつ。好きな瞬間のひとつだ。
「んー……」
きもちいい。寒いのは好きじゃないけど、こうやって、少しだけ寒さを感じるのは好きだ。生きていることの実感めいたものを感じられるからだ。わたしはちゃんと寒さを感じられている。
当たり前のことなんだけどね。
「はぁ……」
これ以上してると部屋が寒くなっちゃうから、少し惜しいけど窓を閉めることにする。換気ももう十分できてるはずだ。
あっ、そうだ。コートも脱がないと。すっかり忘れていた。鞄もまだ背負ったままだったし。ぼんやりしすぎだな……だけど、こうしたうっかりも嬉しい。脳天気さの象徴みたいなものだ。
「ふぅ……」
重たい鞄とコートから解放されて息をつく。まだ、体には分厚い制服もまとわりついているけど、それは我慢する。何事にも我慢は必要なはずだ。しすぎちゃいけないし、むしろ、少ししないぐらいがちょうどちょうどいいんだけど。
脱いだコートを簡単にたたんでベッドの上に置く。
「…………」
「きたない……」
ベッドは朝起きたときのままといった状態で放置されている。別にそれはいつものことなんだけど、今日は少し直してあげようかなって気分になった。おせっかい焼きだな。
「…………」
どうせ、春巳はそんなこと気にしないし、明日の朝にはもうさっきと同じ状態になるはずだ。だけど、目についちゃったからしたくなったんだ。
「あっ」
シーツを払ってしわを伸ばそうと思った。だから、何枚もの掛け布団の間に手をさしこんで持ち上げようとした。
「ぬくい……」
まだ布団の奥には熱が残っていた。少し気持ち悪いような、湿ったぬくもり。
どうしようもないものに衝き動かされるようにして、わたしは布団の中に頭を突っ込んだ。突っ込んでいた。気がついたらそうしていたのだ。髪が乱れちゃうなっておもうけど、我慢できなかった。
あぁ……あったかい……重い布団に頭を押さえつけられている。ほんの少しのぬくもりは手先が感じたのと同じに湿っていて、気持ち悪い。だけど、それが無性に気持ちよく感じられるし、愛おしさも感じる。それに、においも感じる。春巳の、体のにおい。
「んん……」
それを肺いっぱいに吸い込んで、はき出す。動物みたいだ。それは、彼のベッドの中がということだ。
「なにしてるの?」
不意に声が掛かる。彼が戻ってきたんだな。
「ベッドメイク」
「とてもそんな風には見えないけど」
「世の中にはこういう方法もあるんだよ」
「嘘つき」
「大好き」
「唐突だね」
本当に好きなんだ。心の深いところから湧き上がるような愛おしさを感じている。
「春巳も、一緒にしようよ」
それにしても、息が苦しい。息のしづらい姿勢だし、元から空気も薄そうな場所だ。
「しないよ」
「じゃあ、わたしはもう少ししてる」
「恥ずかしいからやめてよ」
「わたしは恥ずかしくない」
ただ、きもちいいだけ。いま幸せだから、飽きるまでこうしていたい。布団の向こう側からくもぐった物音が聞こえてくる。歩く音、どこかにお盆を置いて、そのうえでカップが跳ねる。イスに座る音と、座られたイスのきしむ音、少しの間音は止んで、パソコンをいじっているんだろう、キーボードを叩く音が聞こえる。
少し眠いし、このまま寝ちゃおうか。それとも、せっかく淹れてきてくれたんだ、コーヒーを飲んでからにしようか。あぁ、そうだ。この状態で寝たらきっと夢見が悪くなる。
雪崩に巻き込まれて冷凍保存される夢でも見そうだ。
「起きたの?」
PCデスクの前に座った春巳に声をかけられる。予想した通り、ディスプレイにはブラウザが表示されている。
「コーヒーだけ飲んで寝る」
「一緒に?」
「どっちでもいい」
「そう……」
興味をなくしたみたいにふいっとディスプレイの方に向き直ってしまった。強引に誘った方がよかったのかな。春巳のご機嫌を取りたい訳じゃないから別にいいんだけど。
お盆の中のわたしのために持ってきてくれたシュガースティックとポーション。春巳は使わない。それをコーヒーのマグカップに流して、スプーンで混ぜる。
くるくる回る液面を一通り眺めて、湯気の立ちのぼるコーヒーはまだ熱いから飲まないで放置する。冷めるまでの間は春巳の背中を眺めている。背中も頭も足もじっと動かさないで、だけど指先と手首だけを小刻みに動かしている。そんな奇妙な姿をただぼんやり眺めていて、頭の別の場所でわたしはなにをしているんだろうなぁ……って考える。ただコーヒーが冷めるのを待っているだけだけど、そこに哲学を探しているようで、バカらしくなる。そんなこと考えないほうがいいのに。ただ、眺めているだけでいいのに……自制する。
なら、見なければいい。あんな背中は見ていないほうがいい。後ろを向いて、コーヒーを飲んでさっさと寝てしまおう。
「なにしてるの?」
それでも気になっちゃうから声を掛ける。ふたりともそっぽを向いて背中をあわせた状態で喋る。
「いつもと同じだよ」
「そう……」
その間わたしはまだくるくる回っているコーヒーの液面を眺めていた。早く冷めないか。早く寝てしまいたいけど熱いのを我慢して飲むほどじゃない。
「あれ?」
中途半端な気持ちで待っていたらコーヒーはいつの間にか凍っていた。くるくる渦を巻いたままの状態で。
「あぁ……」
そうだ。魔法使いになったんだった。自分でも忘れてたけど。
「ねっ、見て」
彼はわたしの魔法のことを全然信じてないみたいだけど、これを見たら信じてくれるはずだ。
「なに……?」
氷になったコーヒーを見て怪訝そうな顔をする。当たり前だ、こんなこと普通にしてたら起きるはずがない。わたしはその信じられないという顔を見て嬉しくなる。ほら、もっと見て、って自分の得意を親に見せる子供みたいだ。
「これが魔法」
氷にできたんだから、温かくすることもできるはずと思って、元に戻そうとする。マグカップの中をじっと見て、温まれと思う。
「ほらっ」
思った通りで、かちかちに凍っていたコーヒーは元の温かい状態に戻っていた。
「ほんとに魔法使いになったんだよ」
「あ、あぁ……」
目の前で起きていることが信じられないといった様子。それもそうだ。魔法を使った張本人のわたしだっておどろいてる。自分が魔法使いだってことは、薄々というか、ぼんやりというか、特に象徴するような出来事があった訳じゃない――だけど、そうなんだって思っていた。だから、おどろくこともないんだけど、いざ魔法を使ったとなるとやっぱりおどろいてしまう。
「すごいでしょ」
にこにこ。自分でも笑っているのがわかる。おどろいた春巳の顔が面白くて、もっと何かしてみたくなる。
調子に乗って氷に戻したり液体に戻したりする。そのたびに目を白黒させる春巳。
「本当に……魔法使いに……?」
「ほんとだってば」
やっぱり信じられないみたいだ。当たり前だとは思うけど。
「あっ!」
カップが割れた。
「ごめんね」
だけどコーヒーは空中に浮かんだままでいる。
陶器のカップはやっぱりなんどもも冷ましたり温めたりしたらいけないらしい。
宇宙船とか無重力のところで見る液体みたいにコーヒーは丸くなって、割れたカップと一緒に浮かんでいる。
「あぁ、うん……別にいいけど」
「どうしよっか、これ」
とっさに浮かばせてみたけど、このあとどうすればいいのかわからない。
「かわりのカップ持ってくるよ」
そういって春巳は慌ただしく部屋をでていった。
ひとり残されて、わたしは本当に魔法使いになっちゃったんだな……と実感する。なんで魔法使いになったのかはわからないけど。



「じゃあね」
沙希を玄関先まで見送っていく。外はもう暗くなっていて、家々の明かりが薄暗く、陰気に雪と道を照らしているばかりだ。
「うん」
まだ少し寝ぼけたみたいでいる。あのあと沙希は疲れたといって、一人で寝てしまった。声の端っこがまだぼんやりしていてこのまま帰すのに少し心配になる。
「じゃ」
笑って、手を振って、門を出て垣根の向こう側に消えてしまうのを見届けて僕も部屋に戻ることにする。外は寒くて、ほんの数分戸を開けていただけで冷たい空気がなだれ込んでいた。早く温かい部屋に戻ろう。

沙希ももう帰ってしまった。家には僕ひとりしかいない。だからといって何かある訳じゃないけど、急に静かになって、少しぼんやりしてしまう。
魔法のことを思い出す。コーヒーを冷ましたり温めたり、ものを宙に浮かせたり。沙希はそれをこともなげににやっていた。疑おうとしている訳じゃないけど、やっぱり信じがたい。それはいままで積み上げてきた常識とかからくる先入観かもしれない。もしかしたら僕は偶然知らなかっただけで、魔法なんて実はありふれていて、なんの特別性もないものなのかもしれない。
まぁ……そんなことはないか。そんな偶然がある訳ない。ここまで歳を取ってきて、一度もそれに気付かないなんて偶然はさすがにあり得ない。だから、魔法は特別なのかもしれない。
じゃあなんで彼女が魔法を使えるのか。
それはわからない。前から魔法使いを自称していたけど、実際に魔法を使うのを見たのは今日が初めてだ。なんでいままで使わなかったのだろう。それとも使えなかったのか。僕に凍ったコーヒーを見せてきたとき、誇らしそうな顔をしていたけど、かすかにおどろいているようにも見えた。あのとき初めて魔法を使えるようになったのかもしれない。
ずっと魔法使いになりたいと思っていたら、本当になってしまったんだろうか。
これのほうが、いままで魔法に気付かなかったよりよっぽど非現実的で非科学的か。願うだけでなれるならわけない。
考えても仕方のないことなのかもしれない。魔法なんて真面目に考えても解ることじゃないし、温度を好きに変えられて、ものを宙に浮かばせて……そこに理屈があるとは思えない。魔法も体系化されていて科学とは違う理屈があるのかもしれないけど、僕はそれを知らない。
沙希はなんで魔法使いに……
解る訳ないと思っている一方、考えろ考えろと圧力をかけるように問いが浮かんでくる。
まぁいいか。
疑問のすべてを放擲してベッドに倒れ込む。
「はぁ……」
沙希がつい今まで寝ていたベッドには彼女の体温とにおいが残っていて、何となく顔を押しつけていた。布団に挟まれていた沙希もこんなような気分だったのかもしれない


Feb 4

孤独の離脱(3)

一話 自分からの離脱(3)

冬休みは終わった。
制服に袖を通すのも久しぶりだ。今日からまた辛い生活に戻る。覚悟は何日か前からしているけど、だからといって辛くなくなるなんてことはない。
「はぁ……」
憂鬱だ。鬱屈とはしていない。気が重いだけだ。
制服にはすでに着替え終わっていて、あとはコートを着込むだけだ。朝食も摂らないから朝の準備に時間がかかるなんてことはない。
安物のコートは重く湿気っているみたいで、気持ちまでまた重くさせられる。沈降した気分をさらに辛くさせられる。胃が痛くなりそうだ。
「さよなら」
なににさよならしてるのかわからないけど、そんな言葉が口からついこぼれた。部屋の暖房を落として、もう出かけることにする。いつもより少し早い、いる時間ものその分長くなる。だけど、気がふさいでしまうような部屋でじっとしているよりは、外に出ているほうがいい。そうだ、その分だけ、ゆっくり歩いていけばいいんだ。
本当に、もう、さようなら。温かい部屋に冬休みの面影でも見ているのかもしれない。帰ってくる頃、部屋はしっかりと冷蔵されて、もう、温かさのかけらもなくなっているだろう。

外は寒い。冬なんだから当たり前だ。冬の長い地方にずっと住んでいる。だから、暖かい夏のことなんて、真冬のこの時期には忘れかけている。ほんの一瞬の夏のことなんて覚えていられない。それは自分の頭がよわいだけだけどさ。
「ねぇ、学校行くのやめない?」
「そうだね」沙希が返事をしてくれる。
ふたりで手を取り合って生きている。べつに、本当に手をつないでいる訳じゃない。恥ずかしいし。部屋はもう冷まされているだろうか。
「夏ってどんな感じだっけ?」
「蝉が鳴いててうるさい。汗かいてうっとうしい感じ」
暖房を落としてから、もう三十分ぐらい経っているだろう。いまは、学校の最寄り駅の、改札を出たところにいる。ここから学校まで、歩いて七分ぐらいだ。三十七分で部屋はどれほどまで冷まされてしまうのだろう。熱平衡をするのにはいつまでかかるのだろう。
「そんな感じだっけ?」
「ちがった?」
あぁ、またろくでもないことを考えているな。
部屋だって、一時間もしないで冷めたりはしない。もう少し待ってくれる。だけど、僕が帰ってくる頃じゃ遅すぎる。
「わかんない。夏なんて昔過ぎて覚えてないよ」
「人生の中で何回体験した? もう何度も何度も経験してるんだから覚えてたっていいじゃない」
「そうかもね」
我慢ならない、かもしれない。これも適切じゃない。自分の心を言い当てる言葉をもてたことなんてないし、これからもきっとない。言葉はやっぱり貧弱すぎるし、いつでも誤解を与える脆弱なものだ。
「それに君はあんまり夏って感じがしないしね。冬みたいに冷たいし、凍ってるよ」
「おせっかいだね」
「うん。わざとだよ。けど君はそんなこと気にしないんでしょ」
「そうだね」
別に達観してる、なんて自負はしてない。ただ、そう思われやすい。それを不本意だと思うこともないから、否定しない。だから余計にそう思われる。別にそれはかまわない。僕の右手は沙希の左手につながれていて、指先の皮の下を伝う血液の流れを感じることもできる。沙希もそれを感じたりしてくれるだろうか。僕の内側を伝う血の巡りを。ふれているのは手のひらと指だけで、体全体から見たらほんの小さな部分だけど。
「やっぱり、学校行きたくない」
「だだをこねる子供みたいだね」
「沙希よりは子供だよ」
「それは歳の上での話?」
「両方で」
沙希といながら、ふれていながら僕は部屋のことなんて気にしている。あれは僕の部屋だけど、僕ではない。家も、僕のものではない。よく使っているだけで、お気に入りのシャーペンと大差ない。だから、なくしたら少しかなしいけど、やっぱりなくてもなんとかなるだろう。そんなことよりもいま目の前にいる彼女のことに集中しないといけない。
「ねぇ、やっぱり学校行きたくないって」
「じゃあ、今日は休む?」
「休みたい」
「そっか。じゃあ、休んじゃおう」
めでたく沙希の了承も得られた。こんなことがいままで何度もあった。僕が学校に行きたくないと駄々をこねて、そのたびに沙希を休ませてしまう。彼女はそれを気にしていないようだけど、それでも申し訳なく思ってしまう。
「じゃあ、何か食べに行こう。朝食べてないし」
「うん」
僕は笑って応える。
そうしたらこんどは僕たちと同じ制服を着た人の流れを逆走する。さようなら。少し気持ちのいい瞬間だ。

朝のこの時間のハンバーガー屋は人がまばらだ。
「なんか申し訳ない気分にさせられるね」
ここは近くに会社や店が集まってるなんてこともないし、僕たちの住んでいることろよりは都会だけど、やっぱりどっちもどっち、って感じだ。ここよりも田舎にあった僕たちの元いた学校はなくなってしまって、新しい学校に行くことになったけど、少し通いづらい。でも、そのほかは何も変わっていない。
「風邪で学校休んだときみたいな気分だよ」
「そんなこと思うんだ」
意外だ。むしろ休めて嬉しいぐらいの気持ちだった。
「なんていうか、後ろめたいような気になるよ。みんなは学校で勉強してるのに、わたしだけ休んでると」
「ふぅん……」
やっぱりよくわからない。風邪で休んでも、ずる休みをしても、休みは休みで、土日と変わりないと思う。
「まぁいいや。わかってくれるとは思ってなかったし。これからどうする?」
「そうだね……」
今日は始業式で学校はすぐ終わってしまう。午後から行くなんてこともできないから、このまま帰ってもいいんだけど、帰ったらどうしようか。
「うちに行かない?」
部屋が冷める前に暖房をつけないといけない。部屋が冷めきってしまわないかと心配でしかたがない。
「そうしようかな」
なら早く食べかけのハンバーガーを胃にしまって、帰らないといけない。
「じゃ、早く行こう」
「もう少しゆっくりしていかないの? 外寒いし」
「うちの方が暖かいよ」
そんなにうちに帰りたいのかと自分でもおかしい。
「それとこれとは関係ないって」
別に、早く帰って暖房をつけたからといって、部屋を冷まさなかったからといって冬休みが続く訳じゃない。そんなことはわかっているけど、僕はあの部屋に感情移入でもしているみたいだった。バカみたいだ。
「でも早く帰りたいんだよ」
バカなのはわかっているのに歯止めがきかない。どうしようもないな。
「ふぅん……じゃあ早くするよ」
「ありがと」

ただいま。ただいま。
「部屋、寒いね」
「そう?」
家を出たときほどではないけど、まだ、外よりは暖かいはずだ。
だから、まだ大丈夫なはずなんだけど、沙希の言葉に動揺して慌てて暖房をつけた。
「じゃあ、コーヒーでも淹れてくるから」
「悪いね」


Feb 3

孤独の離脱(2)

一話 自分からの離脱(2)

「もう人いないね」
「午後だしね」
正月の午後。正確な時間は判らないけど、雲におおわれた太陽は天頂よりも西にある。
「あっ、まだ屋台でてるよ」
なんてはしゃぐ彼女。人もまばらで、屋台の大部分が撤収しているけど、まだ参道沿いにいくつかやっていた。
「帰りにたこ焼き買っていこうよ」
「そうだね」
「ほら、冷たいんだ」
近所の別に大きくもないけど、近くでは一番大きな神社。もう何時間か前までは人が沢山いたはずだ。いまは本殿の前で何人かが賽銭を投げたり、交代に鈴を鳴らしたりしている。
「こうしたらいい?」
「あぁ……手が冷たいから温かくなるね」
下を見れば手がつながれていた。温かくて、しびれる。きっと幸せだ。
「不機嫌?」
「別にそんなことはないと思うけど」
いま困ってることなんてないし、ままならないと思っていることもない。ただ、なんとなく、閉塞感というか、鬱屈としているというか、自分の頭のすぐ上に何かじゃまなものがあって、うざったい。そんなような気はする。
「魔法でも使えたら、何とかなるかもね」
「何か悩みごと?」
「わかんない」
「理由がわかったら解決してあげるよ」
「はいはい」
べつに、沙希の魔法を信じていない訳じゃない。ならそれに頼ればいいんだけど、そうしたくない。嘘だったらどうしよう。と思っている。僕の悩みが解決しないことじゃなくて、沙希に嘘をつかれたことが嫌なんじゃなくて、これは正確じゃないけど、沙希が嘘をついている。嘘をつかなきゃいけないような状況に置かれていることが嫌だ。やっぱり正確じゃない。頭の中でぼんやりしている問題は言葉にしようとしてもうまくまとまってくれない。言葉なんて頭の中の抽象を伝えるには貧弱すぎるツールだ。
と、愚痴っても、まだ相談すべき悩みごとすら決まっていないのだけど。
「沙希は、何か悩んでることとかある?」
「なんだろう……あるような気もするけど、ないような気もする」
「そっか」
割と脳天気な彼女は一体なにに悩むのだろう。
「脳天気なこの子は何を悩むんだろう。だいたい、悩んだりする心なんて載ってるの?」
僕の悩む顔をどうとらえたのか知らないけど、そんなことをいってきた。
「自虐ネタ?」
「脳天気って思われてるんだ……」
「思ってないよ。こんな言葉遊びができるんだから」
「頭の出来と脳天気さは関係ないよ」
「そっか」
参道を歩く。正月だっていうのに空には青みがかった灰色の雲がわだかまっている。さっきまでは晴れていたけど、少し寝ている間に曇ったらしい。まるで誰かの心象風景みたいだ。
「空、きらきらしてるね」
「はぁ?」
「いま素で応えたでしょ」
「全然晴れてないじゃん。青空のかけらも見えない」
どんよりしている。あつく堆積したような雲が山の向こうに見える。きっと、夕方すぎにはは雪が降る。
「脳天気なおんなのこらしいことをいってみました」
「拗ねてる?」
「かも」
「そっか。ごめん」
拗ねたりなんてするんだ。なんか、少し意外だった。
「だけど、空はきらきらしてるよ」
青灰色の雲が逆巻いている。
「ほら」
そういって、天頂に近い空を指さす。
「太陽に近いところは光が透けてきらきらしてるでしょ。模様がきれい」
たしかに、そんな風に見える。もやのような雲の隙間から天使の梯子がおりている。
「もう午後過ぎてるんだね」
僕は何を見ているのだろう。ふと考えた。何も見ていないかもしれないし、何かを見ているのかもしれない。目に入ってきたものをどう思っているのだろう。それを見ているのだろうか。
そんなこと考えても解らないけど。
「うん」
「きれいだね。気付かなかった」
「何も考えてないからだよ」
考えてない……のかもしれない。あんまり解らない。いまはこうやって考えてる。だけど、他の時はどうだろう。考えていないのかもしれない。でも、考えてないという状態が解らない。寝ているときと同じなのかもしれない。何か見ていたとか聞いていたとか、そんな記憶は単なる記録としてならあるけど、そのときは何も感じていない。
「ねぇ、いま何か考えてる」
何も感じていないのなら、そのときぼくは心を持っているのか? 何も感じていないのなら、人じゃないのかもしれない。
「何かって?」
「空がきれいとか」
「さぁ? そんなこといきなりいわれもわからないよ?」
本当に何も考えていないのか? 意識に上がってこないだけで、脳の深いところでは何か他のことを考えているんじゃないか。考えていない状態なんてあり得ないと思うけど、それがあり得ないということはあり得ない。あり得ないことを説明する方法が思いつかない。
「じゃあ、何も考えてない時ってある?」
こんなことを考えるのが怖いかといえば、怖くない。それで僕の何かが変わる訳じゃない。その状態を自覚するだけだ。僕が心を持っている状態であれ、心のない状態であれ、この現象に気付いたからといって僕の中で変わるものはない。
「ぼんやりしてて頭が停まってるような状態っていうか」
「それはあると思う」
単に僕が異常なだけ何じゃないかとも考えたけど、そうでもないらしい。だけど、そんなことはどうでもいい。やっぱり、それで何かが変わる訳じゃないから。わざと考えないようにしているような気もする。実は怖いのかもしれない。
「帰らない?」
「まだお祈りもしてないけど」
でもなんとなく疲れてしまった。この神社は境内に行くまでの階段が長いし、今日は朝から体がだるかった。
「はぁ……」
「そんなに帰りたい?」
沙希は僕のことを心配そうに見ている。情緒不安定にでも見えているのかもしれない
「まぁ……」
「まぁ、じゃ解らないよ。君の考えてることはいつも解らないけどね。考えてるのかも解らないし、考えないで、いつの間にか意識が感じるものが存在してそう」
僕と付き合う前、沙希はこんなこと考えただろうか。彼女の考え方に影響を与えたんだな……ってさっき寝る前に考えていたことを思い出した。
「まぁいっか。たこ焼きたこ焼き」
口調を変えて、にっこり笑う。変な節もつけている。斜め上から見る彼女の顔は本当に嬉しそうで、僕もなんとなく楽しい気分になる。楽しいと感じているんだ。沙希の笑う顔にはそう感じさせられるだけのものがあるんだ……ってさっきの考えを引きずっているみたいに考えた。
「そんなに楽しみなの?」
「んー……どうだろ。わかんない」
「ならなんでそんなにたこ焼きって」
沙希の考えていることは解らない。だけど、沙希も僕の考えていることは解らないらしい。元から考えが露出している頭も存在しない。
「のーてんきな女の子だからね。そんなことでも楽しいみたいに思えるんだ」
「本当に根に持ってる?」
「ううん。脳天気っていわれたのが嬉しかったから」
「脳天気っていわれて?」
「うん。脳天気なのはいいことだよ。いろんなことを楽しく思えるのはいいことだよ」
「ふぅん……」
わかんないっていっていたのはどうなんだろう。脳天気でいたいと思って、意識してそう行動しているのだろうか。
「君みたいに辛そうにして生きるのは嫌だしね」
「そんな風に見えるの?」
「すごく」
自覚がないだけで、そんな風に生きているのだろうか。何も考えてない訳じゃない。脳天気な方ではないと思う。むしろ理詰めでものを考える方だ。それは辛く見えるのだろうか。
「脳天気に生きたい?」
「うん。くだらないことに悩んだりしてたら楽しくないしね」
「僕には解らないよ」
つまらないと思うことにも何かを思って考えて、何か見つけないと、損をした気になる。強迫観念みたいに、常に何かを考えないと思う。それが辛く見えるのかもしれない。また、いつの間にか何も考えていない、心がないような状態に鳴っている自分を見つけて苛んだりして、それも辛く見えるのかもしれない。
「まっ、わたしは何も考えないのが幸せってことで。君は考えてるのが幸せ。人それぞれなんだよ。きっと」
「そうだね」
「寒いし早くお参りして、たこ焼き買って帰ろう」
「うん」
歩きながら話していたら、賽銭箱の前まで来ていた。
財布を取り出して小銭入れを見る。視界に入ってきた沙希の顔。
「なに?」
「五円玉」
「持ってないの?」
「鞄持ってこなかったからお財布忘れた」
「そっか」
財布の中に五円玉はひとつしか入ってなかった。
「はい。一個しかなかったからレアものだよ」
「いいの?」
「たかい方が御利益ありそうだから十円にするつもりだったし」
「ふぅん……ありがと。ねっ、知ってた?」
「何が?」
「お賽銭は音を立てて神様にこっちを向いてくださいって意味なんだって。だから、金額は関係ないんだって」
じゃあ僕の十円にも意味はないのかな。
「知らなかったけど、それが?」
「だから、五円玉ひとつでもだいじょぶ」
「なんかセコくない?」
「いいじゃん。わたしと春巳がずっといられますように」
「なんか日本語おかしくない?」
がらがらって鈴を鳴らす。音が鳴りにくいのか鈴縄を右に左に大きく振っている。なかなかに力強い。
柏手を打って、目を閉じている。僕と沙希がずっといられるように祈っているのだろうか。だけど、拝殿の中には正しいお参りのしかたとして絵付きで二拝二拍手一拝のしかたの看板置いてある。それに気付いていないのか、無視をしているのか、ぽんぽんしただけで終わらせていた。これじゃ神様もお願いをかなえてくれないだろう。
祈り終わったのか、ゆっくり顔を上げて、
「春巳はなんてお願いした?」
「ん、あぁ、何もしてなかった」
「えー。なんで?」
「沙希に見とれてたから」
「何いってるの?」
っていいながら照れてる。たぶん、絶対、違う意味で取られてる。露出している頭の中なんて存在しないのだから、しかたがない。べつに、喜んでるみたいだからわざわざ誤解を解くこともない。
「じゃ、いまからするよ」
僕も沙希に倣って手をぽんぽんする。
何を祈ろうか。僕と沙希がずっと一緒でいられますように?
「はい、終わり」
「なんてお願いした?」
「んー……なんだろ」
「教えてよ」
僕もなんて祈ったんだか解らない。何も祈ってないのかもしれない。それは、うまく考えがまとまらなかったのかもしれないし、自力で何とかしたかったのかもしれない。
「まぁいいけどさ……」
そういって、振り返ってもと来た道を歩き出した。
遠くに見えた黒い雲の塊は、さっきよりもこっちに近づいているような気がする。ずいぶんと早い。夕方になる前に降り出すかもしれない。
沙希はいつの間にか石畳の端っこを歩いて、灰色の雪の塊を蹴っていた。たくさんの参拝客に踏まれてぼろぼろで汚れていて、みすぼらしい雪だ。まるで子供みたいに無邪気に振る舞う沙希の姿を見ながらそんなことを考えていた。
「たこ焼き、楽しみだね」
「楽しみだね」
オウム返しに返事をした。そんなに楽しみか?

別に不本意とか、望んでなかったとかそういうことは全くないし、怒ってるなんてことももちろんない。むしろ幸せなくらいだ。
「ほらっ」
「…………」
景色がいい。山ばっかりの田舎だけど、景色だけはいいんだ。石段の頂上にほど近いところに座っている。一段が二十五センチとして、何段くらいだろう。百八段くらいあるのかな? 神社だから違うか。まぁいいや、百八で考えよう。そうすると……二十七メートルになるのか。意外と低い。でも、自分とくらべればけっこうな高さだ。土地自体の高さも足すともっと高くなる。それは当たり前で、そんなことを知ったからといってここの高さが変わる訳じゃないけど。
凍ったみたいな真冬の空気が頬や指、耳、つま先に痛い。午後だっていうのに、全然温かくならない。曇ってなかったら違うけど。沙希がきれいといった空も、いつしか雲がずいぶんふえて、太陽なんて隠されてしまった。
薄暗い中に沈んだ風景が寂しい。ほんと、景色だけはいいんだけど、いまは、ただただ暗い気持ちにさせられるばっかりだ。街の外につながる国道と線路とちっぽけな駅舎が見える。電車の軌轍を踏むたたん、ととん、という音が輪郭をずいぶんぼやけさせてここまで届いてくる。国道を走る車のうなりはここまで届かない。
目の前の山と、厚い雲の空でこの街は何かに囲まれているみたいだ。閉塞感そのものを閉じ込めた箱庭みたいだ。
「電車、来てるね」
「ほんとだ。めずらしい」
雪が降っていたら音はここまで届かなかっただろう。雪が音を吸収してしまうんだ。僕も、周りを過ぎていく有象無象にスポイルでもされているのだろうか? そんなことは思い過ごしで、ただ能力が足りていないだけだ。
鬱屈なのだろうか? よくわからない。沙希はこんな状態を表す言葉を知っているだろうか。
「あーん」
「はいはい」
別にそんな風になることなんてないんだけど……なんで、こんなに気分がふさいでいるんだろう。雪が降るから、雪かきがめんどくさい? 僕に心がないかもしれない? そんなことは大した問題だと思えない。ただの周期的な気分の浮き沈みなのかもしれない。少しは脳天気でいるべきなのかもしれない。
「あつっ」
「ははっ。できたてだからね」
「わかってるならいってよ……」
「ぼんやりしすぎだよ。いつもそうで、そういう人なのはわかってるけど、その態度はどうなのよ?」
「反省します……」
何も考えないほうがいいのだろうか。
必死にたこ焼きに息を吹きかけている沙希を見て思う。そんなふうに、どうでもいいことに真剣になれるのにあこがれているのかもしれない。
沙希の真剣さがうらやましい。
「脳天気むすめ」
「そうですよー」
にこにこ。無邪気そうに笑う。本当に幸せなんだろうな。
雪に閉ざされた街は真白い。空は灰色だけど、雪は弱い光でもしっかりと反射している。自分の仕事をさぼることなく。まわりの雪片たちと同じように、休むことなく反射し続けている。そんな彼らは何か考えたりするのだろうか?
「はい。もう一個」
「冷めてるの?」
「冷ましてあるよ」
まださっきのたこ焼きを口の中でもてあましていて、正直そこまで食べたくはない。だけど、沙希が食べさせてくれるのなら、食べる。口を開けている僕はひな鳥みたいだと思った。
「おいしい?」
「うん」
おいしいし、嬉しいよ。ただ、そう思った。そんな風に純粋にものをとらえられたのなら幸せだ。
「熱いけどね」
「ははっ」
石段の向こう側、街の方から風がびょうと吹いてきた。午後なのに柔らかさのかけらもないな風は凛冽としていて、月並みな表現だけど身が切られるようだった。
「寒いね。そろそろ帰ろうか」
全然寒くなさそうに、だけど、しっかり頬は紅くしながらいった。この脳天気で無邪気な彼女が僕より年上だというのは信じられない。



その脳天気さも無邪気さも、演じているだけで、そうしていつの間にかそれが本当にならないかと待っているのかもしれない。頭もいい沙希のことだから、そんなこともあるだろう。
ゲームをしながら笑ってる沙希の姿を見て思った。
だけど、不自然さのかけらも感じられない。仮定が正しいなら、脳天気さはもう身についているんだろう。
「最期の鍵が見つからない!」
「知らないって」
その彼女はテレビに向かって手元のコントローラーをけだるげにいじっている。RPGらしい。ボスのところに行く部屋の鍵が見つからないらしく、何度も同じところを行ったり来たりしている。
「もう……」
僕の返事が適当だったからか、いつまでも鍵が見つからないからか、少し怒ったふうでコントローラーをいじる。視線はテレビから離されない。笑いながらゲームをしている沙希を見ていると僕もなんとなく幸せな気分になって、そのまま寝てしまいたくなる。
あぁ、幸せだな。って。いまここには僕を傷つけるものもない。沙希と僕だけがいて、余計なものはない。でもあと一週間ぐらいしたら悪意とそれ以外の有象無象に囲まれた生活に戻る。それは嫌だ。まぁいいんだけどさ。とか、そんな風には思わない。それでも受け入れなくちゃいけないのだけど。
沙希が帰るまで起きていようと思ったけど、疲れているし、寝ることにする。
「おやすみ」

朝だ。
携帯のアラームにも目覚ましにも起こされることなく起きた日は、そのときから調子がいい。
ベッドから辷り出る。
「おはよう」
「うわっ」
布団の中から沙希の頭がとびだしていた。
「おはよう」
「おはよう……」
いいけどさ……


Feb 2

孤独の離脱(1)

一話 自分からの離脱(1)

僕の部屋はハロゲンヒータの暖かな空気と幸福でみたされている。

たぶん。よくわからないけど。幸福は目に見えるものじゃないし、何かを通じて感じられるものでもない。だけど、暖かな空気は肌を通して、間違いなく感じられる。それはきっと幸せなことで、やっぱり僕は幸せなのかなぁ……と考える。これが本当なのかは解らないけど。

「ねぇ、わたしさ……」

「……なに?」

沙希は疲れているのか、後に続く言葉がいい出しにくいのか、大きなため息をついた。

「……魔法使いになっちゃった」

「そう……」

「反応薄いね」

「何度も聞いたからね」

それから、午前中の光りもあふれている。透明か青色みたいな色の光りだ。さっきまでは、あつい息とか、嬌声とかもありふれていて、それは部屋の外にもあふれ出ていた。あつい息と、嬌声と。そのふたつと僕たちの幸福でいっぱいだった。

「でも、今回は本当だよ」

彼女は、終わったあとに決まって魔法使いになったという。最初はそうじゃなかった。その次もたぶん違う。でも、いつからか、終わったあとに魔法使いを自称するようになっていた。毎回、祈るような声でそれを告白する。

沙希は、自分の力ではどうにもできない悩みでも抱えているのか? と、心配してしまう。どうしようもならないものを魔法で解決したいのだろうか。

「もう、何度めになるよ? その話」

「何度もしたよ。たくさん、たくさん」

「それで、今回は?」

「今回も本当」

沙希は、実は魔法使いなんじゃないか。

そう仮定して考える。いつの間にか本当の魔法使いになっていて、それを隠すために、騙すために何度も何度も魔法使いを自称しているのかもしれない。本当になったことを悟られないように、冗談みたいに口にする。

そんなことを考えるのはあほらしいだろうか? だけど、可能性のひとつとしては考えられる。そんなことはないに限りなく近いけど。

「……ごめん、嘘。いままでは嘘だった。今回は本当」

「そう……」

この瞬間に嘘が本当になったのかもしれないと考える。バカみたいだ。

「信じてよぅ……」

彼女はいじけたように人差し指で僕の胸板をなぞる。僕の頭はぼんやりしていてよくわかってくれないけど、のの字でも書いているのかもしれない。

「くすぐったいよ」

「わかってる。信じてくれたら、やめてあげるよ」

「じゃあ信じる」

これが、一応やさしさだと思う。

だけど、これは一般にいう優しさとは大分違って見えるだろうし、僕自身もそれをやさしさといっていいのか解らない。ただ沙希にそういってあげたいと思ったからそうした。それはただの衝動かもしれないし、心の底から出た言葉なのかもしれない。自分のことなんて解らないから正しいのかなんて判らないけど、それでも本当にいってあげたかった。

こんなことは僕には珍しいことで、それは彼女――沙希が特別だからだ。彼女に執着しているし、だからこんなこといって、考えている。

だけど、ただ、思う。僕が沙希を愛せなくなってしまったら、彼女はどうなってしまうのだろう。まぁ、実際はどうにもならないけど。

そんなときが来るかもしれない。僕じゃなくても、沙希が僕のことを愛せなくなってしまうかもしれない。そのときはそのときだけど、ただ、そのあと彼女はどうするのか。きっと、どうもしないで生き続けるだろう。それか、死んでしまう。自殺かもしれないし、車に轢かれるかもしれない、病気かもしれない。もう少し近い未来のことをいえば、別れたときに、悲しんでくれるかもしれない。運良く死ななければ、今よりずっと未来にそんなこともあったなぁ……ってなつかしんでくれるかもしれない。

こんなのはただの想像で、妄想で、こんなことを考えたからといって沙希が未来そうするかは解らない。だいたい、まだ別れてすらいないし。

だけど、別れてしまった未来に、そんなふうに思い出してくれたら幸せだ。僕も魔法使いを自称する変な子がいたな、って思い出すだろう。忘れはしないはずだ。

そんなふうに、僕の中に沙希の存在が残って、沙希の中にも僕が残るかもしれない。

それは、他の人の考え方や、精神に影響を与えるということだ。その人の心の中に自分の存在を残して、また、その自分に影響された考え方をその人は伝播させる。ぼくの存在はどこまでも広がっていく。子供を残す以外の方法で、僕自身の存在はないけど、情報として残していく。そんな喜び。だけどこれは、屈折した自己顕示欲なのかもしれない。

「軽い言葉だね」

「本気だよ」

この言葉が沙希にどんな影響を与えるかは解らないけど、彼女はいま生きていて、僕の言葉を聞いた、きっと意識もしないようなところにそれは蓄積されている。何かの拍子に思い出すかもしれないし、気付かぬうちに影響も与えているかもしれない。

だけど、僕は本当に信じているのだろうか。魔法なんて実際にある訳ないと思っている。でも、あってもいいんじゃないか。とも思う。それは、あって欲しいなのかもしれない。僕のためか、沙希のためかは知らない。僕のためでもなく沙希のためでもなく、どこかの遠い誰か、たとえば紛争地帯で死にかけている人、渇水にあえいでいる人たち、そんな人たちのことを考えてのことかもしれない。

まぁ、どうでもいいんだけどさ。嘘でも本当でも。沙希はいま笑っているのだから、間違いなく幸せだし、なら幸せにさせる言葉の真偽なんてどうでもいい。

「そんなに簡単に信じてくれるのは、君が魔法使いだから?」

「ぼくは違うよ」

「そうだったね……」

疲れてしまったというふうにため息をつく。けだるげで、実際疲れているんだろうけど。もう寝たほうがいいのかもしれない。まだ全然朝だけど。

「沙希は、どんな魔法を使えるの?」

訊いてみる。体は水袋みたいに重くてぶよぶよしている。これはただの比喩だけど、実際にそうなったような気分だ。それぐらい疲れているのにこんなことを訊くのは、なにか話をしていたいのだろう。僕は沙希のことが好きだから、彼女の語る魔法の話に耳を傾けて、それを子守歌にして寝たかったのかもしれない。そうできたら幸せだから。あとで真面目に聞いてなかったって怒られるかもしれないけど。

「まだわからないよ。魔法使いになったばっかりだから。でも、何でもできそうな気がする」

「じゃあ、いつか見せてね」

「そのうちね」

そのうちは、来るのだろうか。

「疲れてるの?」

「そりゃあね」

「元気がない」

「どっちの意味で?」

「常識的な意味で」

「疲れてる」

いまにも目蓋が落ちそうかもしれない。大体、今日は寝不足なんだ。運動したあと、暖かい部屋でぼんやりしていたら眠くなるのは道理だ。

「さっきまであんなに元気だったのにね」

「どっちの意味で?」

「両方」

頭のねじでも飛んでたのだろう。

「わたしのこと、好き?」

「うん……」

「さっきまでうわごとみたいにいってた。何度も何度も」

それはもきっと頭のねじが飛んでいたからだ。好きだよ沙希。好きだよ。大好きだよ。何度も繰り返した。沙希のいう、うわごとのように。

「それなのにいまは怠そうで全然ダメ」

「ダメって……ひどいね」

だけど、いまの僕は心がどこかに行っているのかもしれない。心の所在なんて元から解らないけど。解っていたら僕も苦労なんてしない。だけど、こんなに打ち込むこともなかっただろう。その場合は他の何かを見つけていたはずだ。

「なんか、眠そう」

「結構眠いかも」

「寝ちゃう?」

なんてささやかれたら心が傾いてしまう。でもいいや、気分がいいし、このまま寝てしまいたい。

「そうしようかな」

いま何時だろう。沙希が来たのはぼくが寝た少し後で、やっぱり時計を見てないから時間は判らないけど、明るくはなっていたはずだ。それから何時間ぐらい経ったんだろう? 頭がぼんやりしていてよくわからない。でも、なんでもいいや、寝よう。

「僕が寝たら沙希はどうするの?」

「どうもしないよ。シャワー浴びたら一緒に寝る」

「沙希はいつもしたあとシャワー浴びるよね」

「イヤ?」

「なんで?」

「何となく、イヤそうだったから」

「そんなこと、ないよ……」

それは、自分の存在を伝える方法のひとつを否定された。そんな風に、心の底で考えている。とか、そんなことだろうか。それは嫌だな。なんとなく、傲慢だ。

あぁ、もう……眠い。

「じゃあ、シャワー浴びてくるから」

「おやすみ」

ばたん。って扉の閉まる音が聞こえて、あとには満身創痍の僕と、曖昧な幸福が残された。